ラオプラザホテル
2月16日9時半、タイ航空の飛行機でビエンチャンの玄関口、ワッタイ国際空港に到着する。飛行機のタラップを降りて、滑走路を少し歩いてから空港事務所に入るという、日本の地方空港のような雰囲気。入国審査の窓口の前で、JICAラオス事務所の小川美織さんが待っていてくれた。到着ロビーを出ると、タクシーが数台客待ちをしているほかは、何もない。人の姿もほとんどない。のんびりした空気が漂ってくる。
JICAの車でビエンチャン市内に向うが、高い建物はない。急に空が広く感じられる。今回の出張の宿泊先であるラオプラザホテルに到着する。このホテルは、日本でいえば帝国ホテルといったところで、ラオスの最高級ホテルである。外国からの要人の利用が多く、たとえば小渕元首相が利用したほか、今回の滞在中には、中国から副首相及びその関係者約100人が宿泊した。シングル(日本のビジネスホテルのシングルの部屋の5倍くらいの広さ)で1泊100ドル。安いと思われるかもしれないが、ビエンチャンの生活費が1か月100ドルもあれば十分といわれている物価水準の中では、ものすごい高さである。
ラオプラザホテル
本州と同じ大きさの国
ラオスは、インドシナ半島に位置し、北は中国、東はベトナム、南はカンボジア、西はタイとミャンマーに接している。海に面していない内陸国である。世界的にみれば、海に面していない国は少数派であり、港がないことが貿易などの経済活動面で支障となっていることは否めない。山と平野の比率は、3対1くらい。ラオスは、「山と森の国」である。
国土の西側、ほぼタイとの国境沿いをメコン川が流れている。中国のチベット自治区を源に、6カ国を経て、ベトナムで南シナ海に注ぐ。全長4500㎞、東南アジア最大の河川で、年間に海に放出する水量は、日本の全河川の流出総量を上回るという。メコン川が、ラオスの平野部をつくり、ラオス国民に水や魚介類を提供し、ダムから電力を提供し、船による交通手段の場となっている。ラオスは、メコン川がつくった国ということができる。
国土面積は24万k㎡で、本州とほぼ同じ大きさ。人口は、約550万人。本州なみの広さの土地に、兵庫県の人口(560万人)しか住んでいないのであるから、人口密度の薄さが想像できるであろう。首都ビエンチャンも、人の姿は少ない。
乾季は毎日が晴れ
気候は、熱帯モンスーン気候で、雨季(6~10月)と乾季(11~5月)に分けられる。滞在して驚いたのは、2月中旬から3月下旬までの約6週間、天気は判で押したように毎日が晴れ、雨が降ったのはシャワー(にわか雨)が2回計2時間ほど。つくづく天気予報がいらない国であると痛感した。これに比べれば、日本の天気の変化はめまぐるしい。ラオスの国民性がのんびりしているのは、こうした安定した天気も影響しているだろう。
日本では雪が降る2月には、ラオスでは最高気温が30度を超すようになり、4月がもっとも暑くなる。4月中旬がラオスの正月。暑いからであろう、正月には「水かけ祭り」といって、お寺に水を持ち寄って無病息災を祈るほか、だれかれとなく水をかけてもよいという。
多民族国家
ラオスで、最も多い人種はラオ族で人口の約6割を占めている。ラオ族以外に、モン族、カム族など48の民族(民族数には異説あり)がいる。多くは山岳部にすむ少数民族である。ちなみに、「ラオス」という表現は、フランスの植民地になったときに、フランスによってラオ族のラオ(Lao)を複数形にして、ラオス(Laos)と称されるようになったという。
言語は、ラオ語。声調が低音、中音、高音、上がる中音、下がる高音、下がる低音と6つもある。中国語の4声を上回り、音痴の人はついていけない。表記も独特な文字で、難しそうであるが、ラオス人によれば、日本語の漢字の方がはるかに複雑ではないかという。ラオ語はタイ語と同じ言語に属しているので、ラオス人はタイ語を理解でき、タイのポピュラーミュージックやテレビ番組が、ラオスでも人気がある。
宗教は、仏教。お寺が多いし、昼間街中で僧侶を見かけることも多い。朝早く起きて戸外にいけば、僧侶の托鉢の風景を見ることができる。オレンジ色の袈裟をつけた僧侶達が托鉢に来ると、人々(ほとんどが女性達)はひざまずいて、お米や食べ物を僧侶の鉢に入れる。
社会主義国家
ラオスの正式名称は、ラオス人民民主共和国(Lao People’s Democratic Republic)。1975年12月以来、ラオス人民革命党が政権を担当している。
ラオスに統一国家が誕生したのは、14世紀のラーンサーン王国。15世紀から16世紀にかけて仏教文化を中心に全盛期を迎えたが、その後、3国に分裂。ビルマ(現在のミャンマー)やシャム(現在のタイ)の侵略を受け、19世紀には2国がタイの属国となり、1893年には、ベトナム、カンボジアとともに、フランス領インドシナ連邦の一部となった。フランスは、ラオスの植民地経営にあたっては、教育程度を低位にとどめる「愚民政策」と、管理者をベトナム人にゆだねる「放置主義」をとった。
第2次世界大戦後の1953年、フランスから独立をしたが、政権は安定せず、左派と右派の対立による内戦を繰り返した中から、左派の民族解放戦線のパテ-ト・ラオを母体に発展したラオス人民革命党が政権をにぎった。1975年、600年続いた王制が廃止され、現在のラオス人民民主共和国が誕生した。当時の人民革命党の書記長は、後に大統領になったカイソーン氏(1992年死去)で、現在はラオスの紙幣の肖像画になっている。
厳しい経済状態
1975年からの計画経済はやがて行き詰まり、86年に「新経済メカニズム」とよばれる経済改革に着手。中国やベトナムと同様に、市場経済を導入し、開放経済政策を推進。97年のアジア経済危機の影響を受ける一方、アセアンに加入し、経済発展が著しいタイやベトナム等のアセアン諸国に引っ張られる形で経済成長を図ろうとしている。
とはいえ、一人あたりのGDP(2001年)は329ドルと、最貧国(LDC)の部類に入る。主要産業は、農業、林業木材加工及び水力発電。就業人口の8割、GDPの5割が農業という状態であり、その農業も、山岳部では焼畑農業であり、自活できれば御の字というところ。貿易は大幅な輸入超過であり、国の財政は逼迫していて、外国の援助がなければ、道路や橋の整備、公共建築物の建設といった事業は実施できない。経済的には大変厳しい状況にある。
多民族国家、社会主義国家のラオス
【 週刊社会保障 2004.6.28 №2289(法研) 】