人気ブランド「VAN」の創業者である石津謙介さんが、先月93歳で亡くなった。生前お会いしたことはなかったが、2つの点で石津さんから影響を受けたので、いつも身近に感じていた方であった。
ひとつは、言わずと知れた石津さん提案のアイビールック。ブレザーにボタンダウンのシャツ、レジメンタルタイ、チノパンツ。しゃれた装いをするときは、いつもVANスタイルだった。
もうひとつは、「VAN99ホール」という小劇場の存在。この劇場は、70年代の日本の演劇史に流れ星のような一瞬の輝きを見せ、そして、私の人生にも変化をもたらした。
VAN99ホールは、東京都渋谷区の青山通りにあった。ヴァンヂャケット本社の1階を演劇用ホールに改装したものだった。名前の由来は、客席99席、入場料も1人99円としたことから。満席になっても1万円の収入にもならない。石津氏は、今でいう企業メセナの感覚で、青山通りの一等地のスペースを、若者達が演劇を公開する場所として提供してくれたのであった。
当時、私は大学の演劇研究会に属し、2か月に1回は演劇を上演するという熱中ぶり。唐十郎の状況劇場、鈴木忠司の早稲田小劇場、別役実の文学座など、あちこちの芝居を観に行っていた。
1974年8月、つかこうへいの芝居が、初めてVAN99ホールで上演された。演目は、「初級革命講座-飛竜伝」。役者は、三浦洋一と平田満。やがて彼らはメジャーな俳優となるが、当時は早稲田大学を出たばかりであった。以後、つか氏の作・演出による「ストリッパー物語」、「熱海殺人事件」と、次々とホールで上演された。毎回、熱気にあふれた、目の覚めるような舞台であった。
いつしか我々演劇仲間の間で、このホールで上演したいという気持ちが大きくなっていった。1975年の春、VAN99ホールは、上演する芝居を公募した。そこで、勇躍チャレンジすることし、私は2ヶ月間、下宿に閉じこもり芝居を書き上げた。しかし、残念ながら選外。当方は、劇作家の能力に見切りをつけて、その後紆余曲折を経て役人の世界へ。
演劇研究会の夢をかなえてくれたのが、同会を発展解消して「夢の遊民社」を結成した野田秀樹で、1976年、彼の作・演出による「走れメルス」がVAN99ホールで上演された。その後の演劇界での野田氏の活躍ぶりは周知のとおり。つか氏、野田氏といずれも飛躍のスタートは、VAN99ホールであった。
まもなく1978年の会社の倒産により閉場。文字通り「伝説の舞台」となった。
今でも青山通りを歩くと、30年前の演劇好きな若者達の一群と、それをダンディな装いで見つめていた石津謙介さんの姿を思い描く。
思い出のVAN99ホール
「週刊社会保障」第2339号(2005年7月、法研)