社会福祉学科教授に就任
「月日(つきひ)は百代の過客にして、行きかふ年(とし)もまた旅人なり」とは、松尾芭蕉の「奥の細道」の冒頭の文である。今回、上智大学で勤務した3年間を振り返る文章を執筆するにあたって真っ先に浮かんだ1節である。3年間通いなれたキャンパスに別れを告げようとしている自分の姿は、わらじを編みなおしてまた新しい世界に出発しようとする「旅人」と同じようにみえるかもしれない。1981年に厚生省に入省後、省内の局間異動や他省庁・地方自治体、研究機関への出向など、これで16回目の異動となるが、いつの時でもなじんだ職場を離れることには、誠に名残惜しいものがある。ただし、「1宿1飯」の恩義に感謝しつつ、その日その日の寝床を代える浮世草の旅人とは異なり、3年間にわたる勤務中、有形無形の恩恵にあずかったことについて、上智大学に深く感謝する次第である。
私が上智大学総合人間科学部社会福祉学科に教授として赴任したのは、2007年4月であった。常勤職員ではあるが、「任期付き教員」という初めてのスタイルで就任したことについては、少し説明が必要であろう。
私は、もともとは厚生省(現在の厚生労働省)に「行政職」として1981年に入省したキャリア官僚である(注.「キャリア官僚」とは、国家公務員試験の上級試験(現在の1種試験)に合格して役所に採用された官僚のことをいう。昨今では批判の的となっており公言することもはばかられる雰囲気があるが、事実として記す)。厚生(または厚生労働)官僚といっても、ずっと厚生労働省で勤務するわけではなく、他省庁や地方自治体で勤務することが普通で、上智大学に赴任する前の2年半は、内閣府で少子化対策を担当する参事官であった。当時は、我が国の合計特殊出生率が1.3を割り込むという「超少子化」の状態であって、この低出生率を反転させるということを政策目標に掲げて、政府全体でさまざまな新規施策に取り組んでいた。内閣府では、2006年に「新しい少子化対策について」を取りまとめる実務を担当し、児童手当の乳幼児加算や妊娠中の健診費用の負担軽減等の政策に結び付け、6年ぶりに出生率が反転上昇するという実績をあげて、2007年1月に厚生労働省に異動した(注.「実績をあげて」と書いたが、出生率のデータは翌年6月頃ではないと前年の数値が確定しないので、2006年の数値が反転上昇したことがわかったのは、実際には2007年6月であった)。
厚生労働省に戻ったのは5年ぶりのことであったので、これからは本省で行政の仕事をばりばり行おうと意気込んでいたときに、2007年1月中旬、人事課から上智大学教授への出向の話があった。上智大学総合人間科学部社会福祉学科から、欠員が生じた教授職の応援に人を派遣できないかという依頼があったので協力したい、ついては九州大学に2年間出向した経験がある小生が適任ではないか、前向きに考えてくれないか、というものであった。役所を辞めていくのではなく、また厚生労働省に戻る予定で赴任する、そのためには、人事院から研究休職の許可を得て派遣することになる、期間は最長3年間という説明であった。
九州大学法学部に助教授として出向していたのは、1996年7月から1998年6月のことであった。その後、厚生労働省に復帰してからは、「行政」と「教育・研究」の「2足のわらじ」をはいて仕事をする「文行両道」(注、「文武両道」のもじり)の道を歩もうと心に決めた。実際、研究機関に異動したり、岡山県立保健福祉大学や早稲田大学大学院等の非常勤講師を務めたりした。人事課からの再度の大学出向という提案に対しては、本省に戻ったばかりであり、課長のポストも見えていたので、役人としてのキャリアという点からみるとどうしようかという迷いも生じた。しかし、前述の「文行両道」志向の精神と、上智大学というすばらしい大学での経験は他に代え難いものであることから、提案に応じることとした。こうして、法科大学院に現職の裁判官や検事が「任期付き教員」として赴任するのと事実上同じような形態で、上智大学に赴任することとなった。
3年間の教育
かくして、2007年4月、上智大学総合人間科学部社会福祉学科教授に就任した。
担当科目は、行政経験を生かすということもあり、政策運営管理系の科目を中心に担当することとなった。具体的には、社会保障論や社会福祉法行財政論、医療政策論等の科目である。
2007年春学期の担当科目は、社会福祉法行財政論、医療政策論(大学院の保健医療政策学と共通科目)、演習Ⅰであった(注.これら主要な科目以外に、学期によっては実習補助や大学院生への論文指導等の担当科目があるがここでは省略する。以下同様である)。
上智大学に赴任して初めての授業は、月曜日5限の社会福祉法行財政論であった。選択必修とあったので、社会福祉学科の2年生(注.この科目は2年生を中心に受講することが想定されていた)全員、少なくとも50人くらいの学生が受講するかと思いきや、教室に入ると30人程度しか学生がいなかったので、拍子抜けした記憶がある。九州大学では、200人くらいの学生の講義を担当していたので、いささかさびしい感じがした。演習Ⅰにいたっては、最初の授業のときに教室に入ると3人しか学生がいなくて、4か月間どのように授業をしようかと思い迷った(注.その後2人増えて、5人の授業となった)。
しかし、社会福祉学科の学生定員数は1学年50人であるので、数十人の受講生が集まれば「多い」とみてよいだろう。それに、受講生が100人前後になると、授業の資料作りや試験の採点の事務が煩雑である。役所時代には、資料のコピーなどの雑務は部下がしてくれるので、資料作成に苦労は少ないのであるが、大学では、当然のことながら、すべて自分で行うので、大変と言えば大変である。また、私がはるか昔に卒業した大学の専門課程は、学生が1学年で20人しかいなくて(注.それでもその専門課程が属する学科では最大規模であり、他の課程では学生数が3人というところもあった)、通常が20人前後の授業、科目によっては1対1の授業もあった。このように少人数教育の良さを経験しているので、学生にとっては、少人数教育の方が良いことも理解している。
とはいえ、せっかく講義をするのだから、受講生が多いほうが張り合いがあるという気持ちは変わらず、以後、学期の始まりごとに、担当科目の受講生数が気になった。不思議なことに、科目によっては毎年同じ時間帯で開講しても、受講生数が激増、激減した。3年目の社会保障論や高齢者福祉論は、いずれも100人程度の受講生となり、小テストや期末試験等の試験やレポートの採点には苦労したが、授業は気合を入れて行うことができた。
2007年秋学期は、主に社会保障論、地域保健論、演習Ⅱを担当した。地域保健論は、文系の私としてはやや門外漢であったので、厚生労働省の知り合いの医系技官に特別講義をお願いしたり、2年目からは、港区保健所のご協力を得て保健所見学を行ったりするなど、授業の方法を工夫した。初めて保健所を訪問したという学生が多く、見学は好評であった。
2008年春学期は、主に社会福祉法行財政論、医療政策論、演習Ⅰに加えて、基礎演習(注.2人の先生で担当)と実践理論演習総合A・Bの授業を担当した。基礎演習は、入学したばかりの1年生に対して、読書討論やレポート執筆指導をするもので、4年間の大学生活を始めるスタートの授業としてふさわしいものである。また、これも1年生を対象とする総合人間学の授業でも、2回講義を行った。実践理論演習総合A・Bは、4年生の学生が対象で、3年時の実習経験やそれまでの大学での勉学を踏まえて、大学修了時に卒論またはレポートを作成するもので、この年から必修となった。
2008年秋学期は、主に社会保障論、地域保健論、演習Ⅱ、実践理論総合演習A・Bに加えて、大学院の授業である生涯福祉論Ⅱを担当した。生涯福祉論Ⅱでは、内閣府の行政経験を生かして少子化対策を中心とする児童福祉の現状と課題について講義し、院生たちと論じた。
2009年春学期は、主に社会福祉行財政論、地域保健論、演習Ⅰ、基礎演習、実践理論演習A・Bに加えて、大学院の生涯福祉論Ⅰの授業を担当した。生涯福祉論Ⅰでは、高齢者介護をテーマにして、OECDの報告書を輪読しながら欧米諸国の高齢者介護システムについて論じた。
2009年秋学期は、主に社会保障論、医療政策論、高齢者福祉論(老人福祉論)、実践理論演習A・Bを担当した。
このように3年間の担当科目を記してみると、初年度は基本的には3科目であったが、2年目以降からは授業数が増えてきて、学期中は、授業の準備や学生指導等で忙しくなってきた。
担当科目とは異なるが、オープンキャンパスや高校生への体験学習があるので、これにも可能な限り授業を行うこととした。上智大学の授業の雰囲気を知ってもらうことはもちろんのこと、若い世代に社会保障についてもっと関心をもってもらいたいという思いからであった。入学試験の面接のときに、オープンキャンパスで授業を受けたことが志望理由という受験生が複数いたので、1石2鳥の効果があったようだ。
講義と採点
講義の方法については、努めてわかりやすく講義することを旨とした。テキストを指定し、さらに適宜、追加資料を配布した。九州大学での経験があったので、おおむね学生の雰囲気は分かっていたが、当時と異なるのは、携帯電話やインターネットの普及、パソコン利用の一般化である。上智大学の教室には、ビデオやDVD等のオーディオ機器が備え付けられている部屋が多いので、保健・医療・福祉に関するテレビ番組等を録画したビデオを利用しやすかった。今後も、映像の活用は授業の活性化のために欠かせない。
また、学生もレポートにパソコンで作成した図表をきれいに掲載するなど、少なくとも私の学生時代の頃と比べると、プレゼンテーションの技術は高まっている。
授業の受講生の評価については、正直言って毎回苦労をした。科目によっては、レポートがふさわしいものがあり、学生達も筆記試験よりはレポートの希望が多い。試験問題を作成する手間もない。しかし、レポートでは相応の内容のものが提出されてくるので、点数の差をつけにくい。筆記試験の方が、実力差はきちんと出てくるが、試験問題の作成・採点と手間がかかる。それに試験問題の中に小論文を組み込むと、評価に時間がかかる。また、概して平均点が低く、テストの結果だけではF(不合格)の評価にせざるを得ない学生が多数でてくる。もっとも、試験の実施・採点は、教員の基本的な仕事のひとつであるから、きちんと実施しなければならない。
評価点は、A(90点以上)、B(80点から89点)、C(70点から79点),D(60点から69点)、F(59点以下で不合格)の基準であるが、一般的には、80点以上をA(優),70点から79点をB(良)、60点から69点をC(可)、59点以下をF(不可)とする大学が多いのではないだろうか。上智大学の場合、他大学のAが2区分に細分化されている。優秀な学生にとっては、評価が厳密になるのでよい。ただし、ややもすると、「評価点のインフレ現象」が生じて、B評価にがっかりしたり、C評価では芳しくない、ましてやD評価となるとF評価よりもがっかりしたりするという話を学生から聞く(注.F(不合格)評価であれば、再度取り直して高い評価をとる可能性があるが、Dであると評価が固定されてしまうからという理由のようだ)。B、C、Dの評価基準を他大学と同じ水準にして、80点から89点をA,90点以上をたとえばAAやE(Excellent)という表記にして、かつ、最高評価点は1科目で全受講生の10%以下にするといった具合にすると、評価の適正化が図られるような気がする。
3年間の研究
上智大学に赴任した時の、研究目標としては、2つ設定した。
ひとつは、毎年1冊は本を執筆・刊行することである。1冊目は、内閣府参事官時代の経験をもとに、日本の少子化対策について論じた『これでいいのか少子化対策』(ミネルヴァ書房、2008年)。2冊目は、編著であるが、世界10カ国の高齢者介護保障システムを比較考察した『世界の介護保障』(法律文化社、2008年)。3冊目から5冊目は、社会福祉士法及び介護福祉士法の改正に伴うカリキュラム変更からこれら両資格取得のためのテキスト変更が必要となり、出版社から頼まれたもので、『老人福祉論』(全社協、2009年)、『社会保障』(中央法規出版、2009年)、『社会の制度と仕組み』(中央法規出版、2009年)で、いずれも編著である。
また、自分にとっては初めての外国語の著書も出版した。それは、『日本と韓国の介護保険』というタイトルで、韓国の友人達が私の介護保険制度に関する論文を韓国語訳して出版したものである。韓国の書店の書棚に並んでいる様子を想像すると、こそばゆいことであるが、うれしいことでもある。
これらの書籍以外に、『介護白書』(全国老人保健施設協会編)をはじめ、編集・執筆にかかわったり、雑誌等に論文を掲載したりして、ある程度の業績を残すことができたのではないかと考えている。ただし、本や論文の執筆のためには、平素からの知識・情報のストックが必要であり、執筆するたびに勉強不足も認識され、まだまだ努力しないといけない痛感する。
もうひとつは、外国の社会保障研究である。特に、韓国の介護保険制度については、私が厚生省時代に介護保険制度の創設作業に携わり、その後も論文等を執筆して専門分野のひとつとしていることから、以前から韓国の政府関係者との交流を通じて関係が深かった。上智大学に赴任後は研究者としてより行動しやすくなったことから、まず、「日韓介護保険研究会」を立ち上げて研究会を行うとともに、年に2,3回は韓国を訪問し、シンポジウムの出席、関係者との交流や、実態調査等を行うことができた。韓国では、2007年4月、日本の介護保険法に相当する老人長期療養保険法が成立、2008年7月から実施されている。その過程で、私も韓国政府から老人長期療養保険制度審議会の特別顧問に任命され、アドバイスを求められた。こうした形で、日本の経験を伝え、韓国の制度実施に貢献できて大変良かったと考えている。
2009年4月には、図書館9階の会議室で、日韓介護保険研究会の主催、上智大学総合人間科学部社会福祉学科及び上智社会福祉専門学校の協賛で、「世界の高齢者介護保障システムを考える」というシンポジウムを開催した。ドイツ及び韓国の介護保険制度に詳しい学者、厚生労働省の担当課長に出席いただき、約150名の参加者を得て実施できた。参加者の中には民間企業の方も大勢いらっしゃったし、わざわざ福岡県から来られた方もいて、大変うれしいことであった。
社会福祉学科の先生方・学生の皆さんに感謝
以上、上智大学総合人間科学部社会福祉学科教授として勤務した3年間を振り返って、備忘録のようなエッセイを執筆した。やや自慢話めいたものも入っているようで、紅顔の至りであるが、去りゆく者のさびしさの裏返しの表現としてお許し願いたい。
学生は大学に最低4年間は在籍するのに、3年間では短いのではないかと思われる方も多いことだろう。ただし、役所のルールでは、2年間で異動することが普通であり、私にとっても同一ポストに3年間在籍というのはこれまでで最長であり、さほど違和感はない。
その3年間にのびのびと教育・研究活動を行うことができたことについては、赴任当時は学科長であり、現在は総合人間科学部学部長の栃本先生のご配慮に深く感謝したい。また、現在の学科長の島津先生をはじめ社会福祉学科の先生方、総合人間科学部の他学科の先生方、竹野さんや石綿さん達の事務の方々に心からお礼を申し上げる。もちろん、研究室や研究費を保証し、良好な教育研究環境を提供してくれた上智学院の高祖理事長さん、石澤学長さんをはじめ大学のスタッフの方々にも深く感謝申し上げたい。
また、何といっても、社会福祉学科の学生達、社会福祉専攻科の院生達に、心から感謝したい。学生や院生あっての大学・大学院であり、私たちの教育研究である。力足りない点があったかもしれないが、3年間おつきあいいただき、本当にありがとう、と申し上げる。また、いつの日か、皆さん達と再会する機会があり、四谷キャンパスのけやき並木の緑や真田堤の桜を見ながら談笑できれば幸いである。
上智大学における3年間を振り返って
「上智大学社会福祉研究」2010年3月第34号